【ファスト&スロー】ダニエル・カーネマン著
結論、「二つの思考システム」の話です。とても勉強になりました🧐
普段の生活の中で「試そう!」と思えたことがたくさんあったので、そこを抜粋することにしました。
自分に「ささったところ」なので、本書の中心でなないものもあります。
以下、抜粋です📙
二つのシステム
「システム1」とは、速い思考のことで、自動的に高速で働く。努力はまったく不要か、必要であってもわずかである。また、自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。
「2つの物体のどちらが遠くにあるのかを見て取る」「突然聞こえた音の方角を感知する」「”猫に○○○”という対句を完成させる」「おぞましい写真を見せられて顔をしかめる」「声を聞いて敵意を感じとる」「2+2の答えを言う」「大きな看板に書かれた言葉を読む」「”几帳面でもの静かでこまかいことにこだわる”性格はある職業のステレオタイプに似ていると感じる」など。
「システム2」とは、遅い思考のことで、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは、代理、選択、集中などの主観的経験と関連づけられることが多い。そして、注意力を要すことである。
「レースでスタートの合図に備える」「人が大勢いるうるさい部屋の中で、特定の人物の声に耳を澄ます」「白髪の女性を探す」「意外な音を聞いて、何の音か記憶をたどる」「歩く速度をいつもより速いペースに保つ」「ある社交的な場で自分のふるまいが適切かどうか、自分で自分を監視する」「2種類の洗濯機を総合的に比較する」「納税申告書を記入する」など。
二つのシステムの相互作用
本書に登場するシステム1とシステム2は、私たちが目覚めているときはつねにオンになっている。システム1は自動的に働き、システム2は、通常は努力を低レベルに抑えた快適モードで作動している。このような状態では、システム2の能力のごく一部しか使われていない。システム1は、印象、直観、意志、感触を絶えず生み出してはシステム2に供給する。システム2がゴーサインを出せば、印象や直感は確信に変わり、衝動は意志的な行動に変わる。
(中略)
システム1が困難に遭遇すると、システム2が応援に駆り出され、問題解決に役立つ緻密で的確な処理を行う。システム2が動員されるのは、システム1では答えを出せないような問題が発生したときである。
(中略)
また、ひどく驚いたときに注意力がどっと高まるのを感じた経験はないだろうか。これは、システム1が想定している世界のモデルに反した出来事が察知されて、システム2の出番になったからである。
(中略)
以上をまとめると、こうなる。あなた(つまりあなたのシステム2)が考えたり行動したりすることの大半は、システム1から発している。だがものごとがややこしくなってくると、システム2が主導権を握る。最後の決定権を持つのは、通常はシステム2である。
(中略)
ただしシステム1にはバイアスもある。バイアスとは、ある特定の状況で決まって起きる系統系のエラーのことである。これから見ていくように、システム1は本来の質問を易しい質問に置き換えて答えようとするきらいがあるうえ、論理や統計はほとんどわかっていない。システム1のもう一つの欠陥は、スイッチオフできないことである。たとえば自分の国の言葉が画面上に現れたら、注意が完全にほかのことに向いているときは別として、ついつい読まずにはいられない。
忙しく、消耗するシステム2
現在では、セルフコントロールと認知的努力は、どちらも知的作業の一形態であることが確かめられている。多くの心理学研究によれば、困難な認知的作業と誘惑に同時に直面した人は、誘惑に負ける可能性が高い。たとえばあなたが7つの数字を見せられ、これを一分か二分覚えているように、と言われたとしよう。しかも、数字を覚えておくことは最優先事項だ、と申し渡されたとする。こうしてあなたが数字に注意を集中しているところに、2種類のデザートからお好きなほうをどうぞ、と言われたらどうだろう。片方はいかにもカロリーの高そうなチョコレートケーキ、もう一方はあっさりしたフルーツサラダである、この実験から、頭が数字でいっぱいのときには誘惑の大きいチョコレートケーキを選ぶ確率が高いことが確認された。システム2が忙殺されているときには、システム1が行動に大きな影響力を持つようになる。
(中略)
認知的に忙しい状態では、利己的な選択をしやすく、挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について表面的な判断をしやすいことも確かめられている。
(中略)
結論は、はっきりしている。セルフコントロールには注意と努力が必要だということである。だからこそ、思考や行動のコントロールがシステム2の仕事になっているのである。
(中略)
何かを無理矢理がんばってこなした後で、次の難題が降りかかってきたときに、あなたはセルフコントロールをしたくなくなるか、うまくできなくなる。この現象は、「自我消耗(ego depletion)」と名づけられている。
(中略)
このように自我消耗を起こした人は、「もうギブアップしたい」という衝動にいつもより早く駆り立てられる。
(中略)
神経系は、人間の体のどの部分よりも多くのブドウ糖を消費する。
(中略)
難しい認知的推論をしているときや、セルフコントロールを要する仕事に取り組んでいるときには、血液中のブドウ糖が減る(血糖値が下がる)。これは、全力疾走中のランナーが筋肉に蓄えられたブドウ糖を消費する現象とよく似ている。このことから、自我消耗の影響はブドウ糖の摂取で解決できると考えられる。バウマいスターのチームは、この仮説をいくつかの実験で確かめた。
(中略)
さて実験では、次のタスクに移る前に、参加者にレモネードを与える、半分にはブドウ糖が入っており、残り半分には人工甘味料のスプレンダが入っている。レモネードを飲んだ後の第2のタスクは、直感を抑えないと正しく答えられない。通常は、自我消耗した人は非常に直感的なエラーを犯しやすくなる。スプレンダ入レモネードを飲んだ被験者は予想通りエラーを犯したが、ブドウ糖入りを飲んだ被験者は自我消耗の兆候を示さなかった。
知能、認知的抑制、合理性
思考とセルフコントロールの関係を調べるために、研究者はさまざまな方法を試してきた。
(中略)
4歳児の目の前にマシュマロまたはオレオ・クッキー1個が入った皿を置き、「これはベルを押せばいつでも食べてかまわない。でも食べずに15分我慢できたらご褒美としてもう1個あげる」と言って実験者は部屋を出る。4歳の子供にとってはきびしい状況だ。子供たちはひとりぼっちで部屋に残され、机の上にあるのはクッキーの皿と、実験者を呼ぶためのベルだけ。
(中略)
子供たちはマジックミラー越しに観察されており、その様子を撮影したビデオを見た人は、思わず笑ってしまう。子供たちの約半数は十五分待つ難行をやってのけるのだが、その子たちの大半は、後ろを向いたり、数を数えたり、目を覆ったり、じつにさまざまな方法で誘惑から注意を逸らしている。そして実験から10~15年後に、誘惑に勝った子供と負けた子供のちがいが明らかになる。誘惑に勝った子供は、認知的タスクで高水準の実行制御能力を示した。とりわけ、自分の注意力を効率的に分配する能力に長けていた。青春期にさしかかる年代ではあるが、麻薬などに手を出す確率も低かった。さらに重大なちがいが認められたのは、知的能力である。
(中略)
オレゴン大学の研究チームは、認知的制御と知能の関係を数通りの方法で調査した。
(中略)
この実験の結果、注意力を訓練すると実行制御能力が高まるだけでなく、非言語知能テストの成績も上がることがわかった。
(中略)
子供たちが注意力をコントロールする能力は、自分の感情をコントロールする能力と密接に関連することも確かめた。
プライミング効果のふしぎ
1980年代になると、ある単語に接したときには、どの関連語が想起されやすくなるという明らかな変化が認められることがわかった。たとえば、「食べる」という単語を見たり聞いたりした後は、単語の穴埋め問題で”SO□P"と出されたときに、SOAP(石けん)よりSOUP(スープ)と答える確率が高まる。
(中略)
これを「プライミング効果(priming effect)」と呼び、「食べる」はSOUPのプライムであると言う。
(中略)
記憶に関する理解でもう1つ大きな進歩は、プライミングは概念や言葉に限られるわけではない、と判明したことである。
(中略)
ジョン・バルフらが行った、早くも古典というべき実験がある。この実験では、ニューヨーク大学の学生(18~22歳)に5つの単語セットから4単語の短文をつくるよう指示する。このとき1つのグループには、文章の半分に、高齢者を連想させるような単語(フロリダ、忘れっぽい、はげ、ごましお、しわ など)を混ぜておいた。
この文章作成問題を終えると、学生グループは他の実験に臨むため、廊下の突き当りにある別の教室に移動する。この短い移動こそが、実験の眼目である。実験者は学生たちの移動速度をこっそり計測する。するとバルフが予想したとおり、高齢者関連の単語をたくさん扱ったグループは、他のグループより明らかに歩く速度が遅かったのである。
(中略)
ドイツの大学で行われた研究は、バルフらがニューヨークで行った実験をまさに反転させたものである。学生たちは、部屋の中を毎分30歩のペースで5分間歩くよう指示される。このペースは通常の歩く速度の約1/3である。その後に問題を出されると。彼らは「忘れっぽい」「年老いた」「孤独」など高齢者に関連する単語を通常よりはるかにすばやく認識するようになった。このような双方向性のプライミング効果は、整合的な反応を促す傾向がある。すなわち、高齢というプライムを受けると、老人らしく行動する。逆に老人らしく行動すると、高齢という観念が強められる。
連想ネットワークでは、双方向の関係はめずらしくない。たとえば楽しいと笑顔になるが、笑顔になれば楽しくなる。
プライムが私たちを誘導する
お金を想起させるものは、いささか好ましくない効果をもたらす。ある実験の被験者はいくつかの単語のリストを見せられ、それを使ってお金にかかわる表現をつくるよう指示された(たとえば「高い/デスク/額/サラリー」から「高額のサラリー」)。さらにもっと微妙なプライムとして、お金に関係のあるものが室内に無造作に配置された。
(中略)
するとお金のプライムを受けた被験者は、受けなかったときより自立性が強まったのである。彼らは、難題を解くのにいつもの2倍もの時間粘り強く取り組んだ末に、ようやくヒントを求めた。これは、自立性が高まった顕著な証拠と言える。しかしその一方で、利己心も強まった。彼らは、他の学生(じつはサクラで、与えられた課題がよくわからなかったふりをしている)の手助けをする時間を惜しんだ。また、実験者が鉛筆の束を床に落としたとき、拾ってあげた本数が他の生徒より少なかった。
(中略)
またお金のプライムを受けた被験者は、1人でいることを好む傾向が強かった。
これらの発見から総じて言えるのは、お金という観念が個人主義のプライムになるということである。すなわち、他人と関わったり、他人に依存したり、他人の要求を受け入れたりすることをいやがる。
(中略)
ヴォースの実験が持つ意味は深い。彼女の発見は、お金を想起させるものに取り囲まれてしまった今日の文化が、気づかないうちに、それもあまり自慢できないような具合に、私たちの行動や態度を形作っている可能性を示唆した。
(中略)
プライミングに関する研究データは、国民に死を暗示すると、権威主義思想の訴求力が高まることを示唆している。死の恐怖を考えると、権威に頼るほうが安心できるからだ。
(中略)
洗うという行為は、罪を犯した身体の部分と密接に結びついている。ある実験では、被験者が架空の人物に電話またはメールで「嘘」をつくよう誘導される。その後に何か欲しくなるかを調べたところ、電話で嘘をついた被験者は石けんよりうがい薬を、メールで噓をついた被検者はうがい薬より石けんを選んだ。
プライミング研究の成果を講演などで話すと、聴衆は「信じられない」と反応することが多い。これは、驚くべきことではない。選ぶのは自分であり、その理由もわかっている、とシステム2は考えているからだ。
(中略)
あなたの自覚的な経験は、おおむねシステム2の目から見たストーリーで構成されている。一方、プライミング現象が起きるのはシステム1の中であり、あなたはそこに意識的にアクセスすることはできない。
(中略)
システム1が送り出す衝動は、往々にしてあなたの選択となり、行動となる。システム1は、あなた自身と周囲で何が起きているのか、現在を近い過去や近い将来の予想と結びつけて、暗黙のうちに解釈する。システム1の中には確たるモデルがあって、いま起きているのがありふれたことなのかめったにないことなのか、瞬時に評価できる。システム1は、だいたいは正しい直感的判断をすばやく提供する。しかもあなたが意識的に気づかないうちに、これらの活動の大半をやってのける。とはいえ、次章以降で見ていくように、直感がしでかす系統的エラーの大半はシステム1からきている。
私たちがリスクを追うとき
複雑なことを総合的に検討する場合、たとえば車を買うとか、愛娘の結婚相手を品定めするとか、不確実な状況を見きわめるといった場合には、あなたはいくつかの項目に重みをつけるだろう。このことは、あなたの評価と決定がほかの項目よりもそれらの項目に影響されやすくなることを意味する。このような重みづけは、あなたが気づかないうちに行われることもあるが、それはシステム1の仕業である。
(中略)
リスクを伴う選択において人々が確立をどう感じているかは、期待値の法則では適切に説明できない。次の4例では、100万ドルもらえる確率が5%ずつ上がっていくが、あなたはどれも同じようにうれしく感じるだろうか。
A 0%から5%に上がる。
B 5%から10%に上がる。
C 60%から65%に上がる。
D 95%から100%に上がる。
期待値の法則によれば、100万ドル受け取る確率が5%上がるごとに、あなたの効用も同じだけ上がる。これは、あなたの実感と一致するだろうか。もちろん、しない。
0%→5%と95%→100%への変化が、5%→10%と60%→65%への変化より劇的であることは、誰もが認めるだろう。
(中略)
0%→5%の大きなインパクトは「可能性の効果(possibility effect)」と言うことができる。この効果によって、実際にはほとんど起こりそうもない結果に、不相応に大きな重みがつけられることになる。たとえば宝くじを大量に買い込む人は、巨額の賞金が当たるわずかな確立に賭けて、期待値を大幅に上回る金額を投じている。
95%→100%への変化もまた質的な変化であり、こちらは「確実性の効果(certainty effect)」という大きなインパクトをもたらす。「確実」と「ほぼ確実」はまったくちがうものであり、ほぼ確実な結果に対しては、発生確率に見合う重みはつけられない。
(中略)
可能性と確実性は、利得だけでなく損失の領域でも同様の威力を発揮する。
愛する家族が、切断のリスクが5%ある手術を受けるのは、まちがいなく心の痛むことである。その心痛は、リスクが10%のときの半分を大きく上回るだろう。可能性の効果により、私たちは小さなリスクを過大視する。そして、リスクをすっかりなくせるものなら、期待値を大幅に上回る金額を払ってもよいと感じる。また、最悪の事態になる確率が95%と100%とでは、心理的なちがいは一段と大きい。このわずかな望みにすがろうとする気持ちが強く働くからだ。小さな確率に過大な重みをつける結果、ギャンブルや保険が一段と魅力的になる。
以上の点から、結論ははっきりしている。人々は確率を額面通りに受け取って意思決定するのではない、ということだ。
(中略)
プロスペクト理論の研究に着手してすぐ、エイモスと私は、2つの結論に達した。
第1は、人々は富の状態ではなく利得か損失かを重視すること、第2は、起こりうる結果に対して人々が割り当てる決定加重は、結果の発生確率とは異なることである。
(中略)
悪い目しかないときに自分がどう選ぶかを考えてみると、利得がかかっているときにリスク回避になることの裏返しで、損失しか選べない状況ではリスク追求的になることがすぐにわかった。
(中略)
そして、このケースのリスク追求に次の2つの原因があることを突き止めた。
第1は、感応度の逓減である。確実な損は非常にいやなもので、…
(中略)
第2は決定加重で、こちらのほうが原因としては強力かもしれない。
(中略)
この結果、確実な損失と、損をしない可能性はあるが高い確率でより大きな損失を被るギャンブルを比べたときに、感応度の逓減から確実な損失は避けたいと考え、かつ、確実性の効果に影響された重みづけにより、ギャンブルへの嫌悪感が弱まる。
(中略)
八方ふさがりになった人々が絶望的な賭けに出て、大損を免れる一綱の望みと引き換えに、高い確率で事態を一層悪化させる選択肢を受け入れる。対処可能だった失敗を往々にして大惨事に変えるのは、この種のリスクテークだ。
(中略)
同じような決定を長期的視点から検討したら、確率の低い巨額損失を避けるために余分な金を払うのは、結局はコスト高につくことがわかるだろう。
(中略)
すなわち、期待値からの系統的な乖離は、長期的に見れば代償が大きい。これは、リスク回避、リスク追求のどちらにも当てはまる。ありそうもない結果をつねに過大視するのは直感的意思決定の特徴であるが、最終的には好ましくない結果を招く。
「分母の無視」による過大な評価
私は、バスの自爆テロがかなりひんぱんに起きていた頃、何度かイスラエルを訪れたことがある。ひんぱんとはいっても、絶対値でみればきわめて稀だったことは、ここで強調しておかなばならない。2001年12月から2004年9月にかけて、自爆テロは23回あり、合計で236名の犠牲者が出た。当時、イスラエルのバス乗客数は1日当たり130万人ということである。したがって、多くの乗客にとってリスクはごくわずかなものだが、市民はそうは思っていなかった。人々はできるだけバスに乗らずにすまそうとしたし、やむを得ず乗るときでも、不安そうに近くの乗客に目を走らせ、あやしげな荷物を抱えていないか、妙に膨らんだ服装をしていないか、チェックするのだった。
私自身はレンタカーを借りていたので、あまりバスに乗る機会はなかった。しかし自分の行動がテロに影響されていると気づいたときには、ひどく面目を失った気持ちになったものである。私は赤信号のときにできるだけバスの近くに停車しないよう気を配り、信号が変わったとたんに大急ぎでバスから離れるのだった。私は自分が恥ずかしかった。なぜなら統計学を学んだ研究者として、リスクが無視しうるものであることを知っていたし、そんなものに行動を左右されるのは、ごくわずかな確率に過大な重みをつける行為にほかならないとわかっていたからである。実際、バスの近くに停車してテロに巻き込まれるより、交通事故を起こして怪我をする確率のほうがはるかに高い。しかしバスを避ける行為は、生き延びるための合理的な心配に由来するものではなかった。バスの近くに停まって爆弾のことを連想するのが、とにかく落ち着かない。爆弾のことを考えるのがいやで、私はバスを避けたのだった。
私の経験は、テロがなぜ有効か、なぜあれほど効果があるのかを雄弁に物語っている。テロは、利用可能性の連鎖を引き起こすのである。
(中略)
とりわけ、バスが視界に入っているといった特殊な状況ではそうなりやすい。自分では制御できない連想的で自動的な感情錯覚が起こり、どうしても防御行動をとりたいという衝動に駆られてしまう。システム2は、確率がきわめて低いことを知ってはいるだろう。けれどもこの知識は、自然発生的に湧いてくる居心地の悪さや逃げたいという衝動を抑える役には立たない。システム1はスイッチオフできないからだ。
(中略)
ニューヨークには宝くじ売り場がたくさんあり、どこも繁盛している。高額賞金の出る宝くじを巡る心理は、テロの心理とよく似ている。
(中略)
どちらの場合にも、実際の確率はさほど重要ではなく、可能性があるということだけが問題になる。プロスペクト理論の初期の記述には「めったに起こりそうもない出来事は無視されるか、または過大な重みをつけられる」という主張が含まれていた。
(中略)
最近になって、意志決定において感情と鮮明なイメージが果たす役割についての研究が行われ、決定加重に関する私の現在の考えは、この研究に強く影響されている。起こりそうもない結果に過大な重みをつけるのは、いまやおなじみになったシステム1の仕業である。感情と鮮明性は、流暢性、利用可能性、確率判断に影響をおよぼす。めったに起きないが無視できない出来事に私たちが過剰に反応するのは、これによって説明することができる。
(中略)
リスクの伝え方次第で受け止め方に大きな差が出る理由も、分母の無視で説明できる。
(中略)
ある調査によると、「この病気にかかると1万人に1286人が死ぬ」という情報と「この病気の死亡率は24.1%である」という情報を示されたとき、かなりの人が、前者のほうが危険だと判断した。しかし実際には、前者の死亡率は後者の半分にすぎない。
(中略)
これは、分母の無視が端的に表れた例と言えよう。2つの例の分母をそろえて直接比較できるようにしていたら、システム2が判断を下すので、こうしたことは起きなかったにちがいない。だが日常生活では、別々のときに別々の形で見たものを比較する被験者間実験のようなケースがほとんどである。目にしたものを比較可能な形に変換して、直感とは異なる対応をするためには、システム2が相当がんばって働かなければならない。
(中略)
稀な事象の確率がよく(いつもではない)過大評価されるのは、記憶の確証バイアスが働くからである。つまり、そのような事象が思い浮かぶと、あなたは頭の中でそれを現実のものとして思い描く。そのことに特別に注意が向けられるとき、稀な事象は過大に重みづけされる、たとえば、可能性が明示的に示された場合(「勝つ可能性は99%で、何ももらえない可能性は1%」といった明確な記述)、激しい不安を伴う場合(自爆テロがさかんな時期のエルサレムのバス)、鮮明なイメージを伴う場合(赤いバラ)、具体的な頻度表現(10000回に1回)や明示的な説明(「記述に基づく選択」実験)がなされる場合などがそうだ。そして過大な重みがつけられない場合には、一転して無視されることになる。このように、稀な事象に関する限り、私たちの脳は正しい判断を下すようにできているとは言いがたい。まだ誰も経験したことのない出来事に襲われるかもしれない惑星の住人にとって、これはけっしてよいことではない。
フレームと客観的事実ーエコンのように合理的にはなれない
イタリアとフランスは2006年ワールドカップ(ドイツ大会)の決勝で対戦した。
次の2つの文章は、その結果を記事したものである。
イタリアは勝った。
フランスは負けた。
この2つの文章は同じ意味だろうか。答えは、あなたが意味という言葉をどう解釈するかにかかっている。
論理的推論の枠組みで言えば、2つの文章は世界の1つの状態を記述しているので、置き換え可能である。
(中略)
しかし、意味には別の捉え方もある。それは、ある文章を読んで理解したときにあなたが連想したことこそがその文章の意味であるという捉え方である。こちらに従えば、「イタリアは勝った」「フランスは負けた」という文はまったく違う意味を持つことになる。なぜなら、全然ちがう連想が想起されるからだ。「イタリアは勝った」という文章からは、イタリアの選手たちや勝利のシーンなどが思い浮かぶ。「フランスは負けた」という文章からは、フランスの選手たちや敗戦のシーンなどが思い浮かぶ。
(中略)
論理的には等価の文章が、まったくちがった反応を引き起こすのである。
ヒューマンが、エコンのように合理的になれないのはこのためだ。
(中略)
エイモスと私は、問題の掲示の仕方が考えや選好に不合理な影響をおよぼす現象にフレーミング効果と名付けた。たとえば、次の例を考えてみてほしい。
10%の確率で95ドルもらえるが、90%の確率で5ドル失うギャンブルをやる気がありますか?
10%の確率で100ドルもらえるが、90%の確率で何ももらえないくじの券を5ドルで買う気がありますか?
まずはじっくり考えて、2つの問題がまったく同じであることをよく納得してほしい。どちらの場合も、いい目が出れば95ドル得をし、悪い目が出れば5ドル損することになる。したがってあくまで客観的事実に依拠するエコンならば、どちらにもイエスと答えるか、ノーと答えるだろう。だがそういう人はめったにいない。実際には、2番目だけイエスと答える人が圧倒的に多い。これは、外れたくじ券に払ったのは費用だと考えるため、ギャンブルの負けよりはるかに受け入れやすいからである。
(中略)
こうしたわけで客観的事実に基づかない選択が行われる。これは、背後にいるシステム1が事実にあまりこだわらないからである。
(中略)
私たちが考えたこの問題は、リチャード・セイラーから学んだことに影響されている。
(中略)
消費者の行動に関する初期の論文では、ガソリンスタンドで現金払いの客とクレジットカード払いの客とで料金設定をかえるべきか、という問題を議論したときの様子が詳しく説明されている。それによると、クレジットカード擁護派は、支払方法によって料金を変えるのは違法だと強く主張したうえで、やむを得ない場合の譲歩案として、「クレジット割り増し」ではなく「現金割り引き」と表示すべきだと述べたという。まことに理に適った主張と言えよう。人間は割り増しを支払うより割り引きを容認するほうがたやすいからだ。両者は経済学的には同じだとしても、感情的には同じではないのである。